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あの時代あの時  新車で購入した’67ビートル(type1)と共に歩んだ50年

静岡市葵区南瀬名 市川 健二さん(85歳)

まさか1人に自動車1台の 時代が来るなんて、あの頃は 想像もできませんでしたよ。

時に2時間掛けてエンジンを始動する「木炭車」

このビートルは新車で買いましてね。もうかれこれ50年の付き合いになります。当時の金額で確か100万円程でした。大卒初任給が2万円程度の時代でしたから結構なものですよね。当時ビートルはヤナセで販売してましてね。これが販売証明書です(左写真)。ほぼノーマル。購入時のままです。
 とても85歳とは思えないしっかりとした口調。とても紳士的で優しいイメージの市川さん。ビートルと歩んできた半生と若い頃の自動車事情を聞いてみた。
 免許を取ったのが昭和28年ですから終戦の8年後ということになります。
 当時は「自家用車」なんてものはほとんど走っていませんでした。ほとんどがトラックやバスなどの「働く車」ばかりでした。しかも燃料の問題があって「ガソリン」や「軽油」などで走るものではなくて、木炭などの炭を燃やして走る「木炭車」が一般的でした。
 この木炭車が大変でしてね。火を起こして「木炭ガス発生炉(装置)」に木炭や薪をどんどんくべるんですが、何しろエンジンを掛けるのにヘタをすると2時間掛かったこともあるんですよ。エンジンにタールが溜まって固まっていたりすると、エンジンの下で火を燃やして直接暖めたりしてね。今では考えられませんね。だから木炭車は一度エンジンを掛けたらその日が終わるまでずっと掛けっぱなしにしていました。
 当時勤めていた製材所に材木を運ぶ木炭トラックがありましてね、梅が島から町(静岡市へ)運んだりしたこともありました。
 子どもながらに運転手に憧れてましてね。木炭トラックの荷台にある「木炭ガス発生炉」に燃料をくべるお手伝いをすると、木材を運んだ後に河川敷なんかで運転させてくれるんです。楽しかったですね。 22歳で免許を取りましたが、当時は自動車学校なんて無い時代。雑誌などを見て自分で勉強しました。今でも覚えてますが試験車はなぜか大きなフォードでしたね。
 木炭車は馬力が無くてね。当時は山から町(静岡市)に材木を運ぶ際の道路事情が悪く、川に橋が架かっていない箇所があったりすると一旦河原に降りるような道になるんです。で、川を越えると今度は河原から山道に戻らなくてはいけないんですけど、その坂が登れなくてね。だから数人の助っ人を荷台に乗せていくんです。それで坂道に来たら坂道の前で一旦停止してその助っ人がスタンバイする。
 石を持っている人とガソリンを持っている人がいて、坂道をスムーズに登れない時はガソリンを持っている人が、木炭車のキャブレターに直接ガソリンを吹きかけてボンボン爆発させてパワーを上げる、そして坂道を登り始めたら立ち往生するまで一気に上らせるんです。で、坂道で立ち往生したら石を持っている人がすかさずタイヤにかませてトラックが坂道を下り落ちないようにするわけです。チームプレイですね。
 今思えばやり方が無茶苦茶で本当に考えられないことですが、そうするしかなかったんですね(笑)。→
【写真上】今も現役のビートルのエンジンを覗き込む市川さん。エンジンはもちろん、塗装もきちんと施されていて気持ちの良い車両に仕上がっている。
【写真左】当時のヤナセの販売証明書。今ではかなり貴重だ。
【写真上~下】ビートルと共に歩んだ家族の記録が残っている。いつも家族のそばにビートルがあった。家族の成長を見守り、見送ってきた。そして現在も市川さんのそばにいる。もうビートルはただの「自家用車両」ではない。正真正銘の「家族」なのである。

 

当時は国道1号線の他、繁華街以外のほとんどが舗装されていない道路だったし、
道も良くなかったからよくパンクしましたね。


→当時は「自家用車」というものはほとんど走っていませんでした。木炭車で走っている横を進駐軍のジープが気持ちよさそうに抜いていくなんて光景が良くありました。バスも当時はほとんどが木炭車でした。 バス停に歩いていくと遠くで煙が上がっているのが見えるんです。だから「あ、もういるな」ってわかるんですが、急いで行ったらそのバスのエンジンの調子が悪くていつまでたっても発射しなかったりして(笑)。
 当時の静岡駅は東西に線路が走っていましてね。その線路が道路より高く盛り上がっている為、バスもトラックもそこの踏切を横切るのが大変なことでした(笑)。当時の車両はエンジンの調子が不安定。エンストすると大事故になりかねないので、ここも一旦止まってボンボン言わせながら勢いをつけて通過させるんです。線路を通過するのにも命がけ、みたいな(笑)。
 でも国道1号線の他、繁華街以外のほとんどが舗装されていない道路だったし、道も良くなかったからよくパンクしました。だからスペアタイヤを大抵2~3本常備していました。新品タイヤはとても高価だったので「山かけ」といってタイヤの溝が無くなると磨り減ったタイヤの表面に別のタイヤのゴムを張り合わせて再生させたものを使いました。
 それでも当時は走っている車も少なかったから、意外と「事故」って言うのは聞いたことがありませんでしたね。それに、まさかひとりに自家用車1台の時代が来るなんて本当に夢にも思いませんでしたよ。
【写真上】若き日の市川さん。愛息の長男と幼い三男と。愛車に腰掛けて撮られた良い写真です。
【写真下3枚】同じ場所でVWと家族のシーンを各時代ごとに残してきた市川さん。驚きです。
→私は木材の仕事に従事してこれまでやってきました。このビートルに出会ったのもそんな時でした。以来、家族の成長を共に見守ってきたビートルは単に「自家用車」ではなくてもう「家族」のような存在です。
 メンテナンスはきちんとお願いしていますから(笑)エンジンも調子良いですよ。最近タイヤも交換しました。実は今でも週に1~2回乗ることもあるんです。でもそろそろ歳も考えないといけませんね(笑)。
 車のイベントにもまだまだこれからも参加したいですね。でも遠方はさすがに息子に運転してもらいますよ(笑)。  まだまだ現役。これからも楽しんでいきたいですね。
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